Masuk「そうとも! あのパニックの中で、なぜ、伯爵令嬢はあれほど明確な指示が出せた? 極めつけは、あの“魔力蛍光インク”だ! 我々が暗闇で射撃する羽目になることを、最初から知っていたかのような、用意周到さではないか!」
カールの言は、大きく力強い。
そう、騎士達はプロだ。だからこそ、理解してしまう。 ベアトリーチェの行動が、どれほど『ありえない奇跡』の連鎖であったかを。ここまで重なる偶然など、ありえないのだと。
「それは……! 確かに、理由はわからぬ。しかしっ!」
「だとすれば、伯爵令嬢は英雄などではない。己の名声のためなら、生徒の命すら駒として使う、恐るべき魔女だ!」「そのような侮辱、許されはせんぞ! カール卿!」魔女。これは単に魔性を持つという意味ではない。
人に仇なす、“魔人の女”を指している。公然と、貴族の令嬢に向けて良い言葉では――本来は断じてない。「ふぅ。貴様こそ冷静になれ、ローラント。我々騎士団は、まんまとあの女狐の掌の上で踊らされたに過ぎんのだよ」
「黙れッ!!」ローラントが、激昂してカールの胸ぐらを掴みかかった。
「卿は見ていなかったのか!? 恐怖に顔を歪ませながらも、たった一人、魔獣の群れに立ち向かわれた、あのお姿を!」
「ああ、見たさ! だからこそ、反吐が出る! あれも全て“演技”だとしたら、どれほどの怪物かとな!」「なっ……?! 伯爵令嬢は、我々と同じく傷だらけだったのだぞ!」「擦り傷程度であろうが。名誉の負傷と、マッチポンプの自傷では、訳が違うぞ」そう、今まさに。
ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイの評価は、真っ二つに割れていた。伯爵令嬢は、『命を賭けた、勇猛果敢な英雄』なのか。
それとも、『全てを仕組んだ、血も涙もない魔女』なのか。とは言え、どちらかに断定できるほどの材料もなく。
「おい。さすがにカールは、
振るう剣が、鉛のように重たいのは――情が絡みついているからだ。 深い、深い。泥沼に浸かるような夢。 ああ、ひどく懐かしい。あそこは、いつも冷たい隙間風が入って来るんだ。 ボイズ家の屋敷。 ガリアからの亡命者ゆえに、後ろ指を指される一族。いつも不平不満に満ち溢れていた、我が生家。 俺は、あの頃、単なる弱虫の少年だった。 皆の鬱屈した苛立ちは、いつも一番弱い俺に向けられる。「貴様のような腑抜けは、ボイズ家の恥だ!」 父の吐き捨てる声。異母兄たちの嘲笑。拳が、鞭が容赦なく振るわれる。 幼い俺は、うずくまり、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。「ローラント! ああ、なんてことをっ!」 駆け寄ってくれるのは、使用人の身分である母だけ。 俺の代わりにぶたれ、罵られながら、それでも抱きしめてくれた。「娘だったなら、政略結婚に使えたものを。この役立たずめっ!」「申し訳、ございませんっ!」 殴られる痛みよりも、目に宿る軽蔑が、痛かった。 俺は兄たちを打ち負かすことができたはずだ。稽古場で、木人を叩いた数は数えきれない。 だが、いざそれを兄たちに向けると、身体が震えて止まらないのだ。「……誰も傷つけたくないよ。暴力なんか振るいたくない」 人を傷つける感触。肉を断つ音。血の匂い。 それらが、どうしようもなく恐ろしくて、俺は、ただ蹲ることしかできなかった。「騎士になんかならなくていいのよ、ローラント。人の価値は、そんなことじゃないの」「……ごめんなさい、母さん」「きっと、貴方には向いていないのだわ。だって、優しい子だもの」 腫れ上がった頬を撫でてくれる手は、いつも温かくて、ボロボロに荒れていた。 卑しい身分だと蔑まれていても、俺にとって、母は誰よりも気高く、美しい人だった。 そうだ、どんな騎士よりも、母さんの方が――。「でも、俺が立派な騎士になれば&he
「だが……ハンノキの王から、受けた恩義が……俺には」「忌々しいが……魔王は確かに、そなたが人生で最も苦しい時、一縷の救いとなったのだろう。だがな、ローラント。そなたがいなくては、こんな私は王子として格好がつかぬではないか」「……殿下」「だから、そなたが美しいと感じた人々が生きる、この傷だらけの世界で。この頑固者の弱さを……どうか、背負ってくれまいか。そう、友として」 バージル殿下は、手を差し伸べる。殿下は、王太子としてではなく、友として懇願した。 あえて、己の弱さを……情を、無防備に曝け出したのね。「ああ……バージル殿下。貴方様は、本当に『お強い』……」 ローラント殿の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。 彼が、最初に仕えたのは、ハンノキの王だったかもしれない。でも、だからといって、これまでのバージル殿下への敬愛も、友情も、偽りではなかったのよ。 ――しかし。 異界の王は、一度手に入れた騎士を、そう易々と手放そうとはしなかった。 ギチギチギチッ……! 空が裂け、そこから覗く巨大な“異界の瞳”が、裏切り者を許さじと、爛々と開かれる。すると、ローラント殿の体を蝕む茨が、彼の意思を無視して暴れ出したわ!「ぐあああああっ!?」「ローラント!」「殿下っ! ベアトリーチェ様っ、お逃げくださいっ! 俺は……もうっ!? うぅぐぁああああっ!」 茨が、ローラント殿を異界へと引きずり込もうとする。膨れ上がる禍々しい力、為す術はないかと思うほどの勢い。 伸びた茨は暴れまわり、近づくものを吹き飛ばしていくっ!「ダメよ、ローラント殿! あなたとの約束が、まだっ!」 その時、ふわりと髪に飾られた、真紅の薔薇が仄かに灯った。イヅルが
「違うっ! 確かに、私の……“俺”の弱さのせいで、母さんは死んだ! 二度とはもう戻らない。だがっ!」「だが? ほほう、ハンノキの王の世界に連れ去れば、愛する者は傷つかずに済むとでも?」「そうだ! この世は、争いとエゴに満ちている。肉体がある限り、苦しみはなくならない! どんなに、心が美しくとも、いずれは傷ついて――」「待つがよいっ!」 すかさず、横合いからバージル殿下が隙をつき、一太刀! 切り払ったのは、ローラント殿の半身を覆い尽くさんとする、黒い茨。「私は、傷つくことを恐れないぞ! ローラントっ!」「くっ!? 殿下っ!」「聞け、私は融通が利かない石頭だ!」「……はあ?」 唐突に、バージル殿下が叫んだ。 あまりに的外れで、あまりに自虐的。誰もが、呆気にとられた。 けれど、それこそが――この一件を通し、バージル殿下なりに悩み、出した、不器用すぎる答えだった。「そこまで、周りから煙たいと思われているとは知らなかった! ああ、空気も読めないとも! 乙女心も、臣下の気持ちも、察せられない愚かな男だ! おまけに人を見る目もないっ!」 腹心に裏切られ、疑いの眼を向けた者たちは、逆に軒並み味方だった殿下。 自分の無力さを、これでもかというほど思い知らされた、この夜。それでも、殿下は未だに腐らず、なおも真っ直ぐに、ローラント殿に向き合おうとする。 茨が殿下の頬を掠め、鮮血が舞う。それでも、殿下は一歩も退かない!「だがな、そんな愚かな男でも、民が抱える苦しみを背負い、友の悲しみに寄り添う覚悟くらいはあるのだぞ! 私を甘く見るなッ!」「……そのような覚悟は、なくても良いのです。平穏な魂の世界ならば――」「葛藤のない世界に、勇気や気高さを発揮する機会などないっ!」「――っ!?」 バージル殿下は、どこまでも古風な人だった。頭でっかちのどうしようもない理想主義者。 でも、だからこそ――まっ
なぜか、わたくしの高笑いで……ローラント殿の動きが、わずかに鈍る。 よくわからないけど、効いてるわっ!「あなた、自分が何をしたか分かってますの!? ヒュプシュ卿を傷つけ、殿下を悲しませ、あまつさえ、“わたくしのイヅル”にまで手を出すなんて! 万死に値しますわよ!」「それがなにか? 私は、情を断ち切ったのです。主君への敬愛も、友情も、貴女様への……思慕も。ハンノキの王への恩義のために。勝利のために」「バカおっしゃい! 何が勝利よ! 何が『情を断つ』よ!」 わたくしは、扇をバシッと閉じて、彼を指さした。「“真の己”ですって! 情を持たないことが? 違うわ、あなたは空回りばかりしているけど、いつも真っすぐで……それこそが、本当のあなたなんじゃなくて? 剣術を鈍らせるほどの、優しさこそが!」「だとするならば、その“本当のローラント”という男が、この世に不要だったのですよ」「なっ!? なによっ、それがボイズ家の家訓だとでもいうのかしらっ!」 イヅルが刃を止めれば、他の方向から雨あられと弾幕がローラント殿に迫り、拮抗する時間がもたらされる。 わたくしは、皆様が作ってくれたこの時間で――この心の戦いに勝つっ!「家訓。まあ、そうかもしれませんね」 なおも、ローラント殿は、息一つ乱さない。「亡命者の一族など、後ろ盾がなければ、ひどいものです。……私は、そんななかで生まれた使用人の子でした」「使用人の子? ……今や、護衛騎士筆頭なのに?」「ええ、そうです。実子として、認知だけはされましたが……物心ついた時から、『女に生まれれば、政略結婚に使えたのに』と、父や兄たちから、不要な男子として虐げられて育ったのですよ」 想像だにしていなかった言葉だった。ローラント殿が育ってきた背景。「そんなの…&he
空からの魔術の雨、鴉天狗衆の技、ありとあらゆる攻撃が、ローラント殿に殺到する。同士討ちを恐れないほどの波状攻撃。 だが、なおも――ローラント殿には届かない。 剣は、正確無比で慈悲がなく。あらゆる攻撃を最小限の動きで捌き、カウンターの一撃で、確実に急所を狙ってくる――それも、天を断つほどの斬撃がっ! 今までの戦いが、お遊びレベルだったのだと、思い知らされるほどの、絶望的な実力差。「ぐあっ!」「しまっ――!?」 次々と落ちていく騎士、吹き飛ぶ鴉天狗衆。バージル殿下とヒュプシュ卿も、防戦一方だ。 そこに唯一、正面から食らいついていくのは、ただ一人。わたくしの執事イヅル・キクチのみ。「ほう? やはり、ただの執事ではなかったようだ」「クッ、興味深いですね。いつから、この私めの……否、“我”の力量に気付いていたと?」「最初からですよ。そう、一目見た時から、です」 顔半分を茨で覆われたまま、ローラント殿は視線を走らせる。「執事殿。貴方は、常に裏で我々を追っていた。いいや、バージル殿下とベアトリーチェ様の婚約以前から、この国で暗躍していた。違いますか?」 だが、イヅルは答えない。二刀の短剣で、猛攻をしのぎ肉薄する。 ヒュプシュ卿は、絶叫した。「魔王の――ハンノキの王から授かった異能で、戦うことがそんなに誇らしいか、貴様っ!」 だが、ローラント殿は冷ややかだ。「それは違いますよ、ヒュプシュ卿。これこそが、真の実力です」「なんだとっ?!」「かの王が下さったのは――『情を断つ』力。情に惑わされない“真の己”になれるというだけの力です」 意味を理解するまでに、数瞬を要したわ。「つまり。今までの、私の剣術自体が――無意識に手加減をしていた、ということですよ」 繰り出された剣閃は、石畳を砕き、空を走り、兵を蹴散らす。これが、純粋な剣術によるものだというの? 信じられないわ! でも、だか
天文塔の屋上。巨大半球状のドームが、ゴゴゴ、とさらに重々しい音を立てて開かれていく。 すると、満天の星空を埋め尽くす、グリフィン空挺部隊の影。 塔の外壁からは、イヅル配下のキクチ勢『鴉天狗衆』が、蜘蛛のように這い上がり、包囲網を完成させていくわ。「シャーデフロイの、私設空挺騎士団……!」 ヒュプシュ卿が、呆然と呟いた。 グリフィンに騎乗した精鋭たちが、旋回し、今にも降下せんと見下ろす。「……お母様」 わたくしは、この戦力を誰が率いているのか、直感的に察した。パパが王都に来ている以上、その権限がある人物は、他にいないもの。 イヅルが、わたくしの隣へ駆け寄って、そっと腰を抱く。「ビーチェお嬢様。為すべきことをなさられたようで」「あなたもね、イヅル。……わたくしを、助けに来てくれたのね」「お嬢様の危機に駆けつけるのが、この専属執事たるイヅルの務めにございます。ましてや――」 こちらを流し目で見つめて来る、イヅル。「このクライマックスを見逃すほど、節穴ではありませんので」 するとバージル殿下が、キッと睨みつけて来る。「おい、貴様! 我が婚約者にべたべた触れるな! 不敬だぞ」「その婚約者をないがしろになさった、御方が何をおっしゃるか。ましてや、ダンスの順番すらも、待たずに去られたのに」「アレはッ、その、急ぎの知らせが来たから、席を外したまで……で。そもそも、婚約者を後回しにして、ダンスを踊る方がどうかしてるぞ!」 もうっ、そういう口喧嘩をする場面じゃなくってよ、お二人とも。 呆れの溜息を吐きながらも、わたくしはローラント殿へ宣告したわ。「もはや、逃げ場はないわ。誰の目にも明らかな、チェックメイトよ。ローラント殿」 だけれど。 血まみれの剣を下げたまま……ローラント殿は、静かに優しく、微笑んでいた。「――素晴ら